秩父川瀬祭は12月3日の秩父夜祭と対比するお祭りです。夜祭に対して昼間の祭り、冬に対して夏、山に対して川、そして「大人の祭り」に対して「子どもの祭り」とされています。
7月19日、20日に開催されるこの祭りは、平安時代に流行した祇園祭の流れをくむもので、正確にいつから始められたかは不明ですが17世紀半ばにはすでに行われていたことが文献で確認できます。 暑い夏は疫病が最も流行する季節であり、悪疫除け祈願のお祭りとされており、秩父神社の摂社、日御碕宮(ひのみさきぐう)のお祭りです。
7月19日は宵宮が行われ、屋台4台、笠鉾4台の曳きまわしが行われますが、屋台・笠鉾の囃子手や花笠をつけた拍子木、曳き子は子供たちが務めます。夕方からは、秩父神社にすべての屋台、笠鉾が集結し、天王柱立て神事が行われます。夜の曳きまわし終了後、各町の若者が深夜、荒川の水を汲んで帰り、町内を清めて回る「お水取り」の行事が行われます。(※現在は、各町会により実施日が異なっています。)
7月20日午後からは屋台、笠鉾が先導し、荒川武の鼻斎場に向け御神幸行列が行われます。重量約400kgもの白木造りの神輿を、各町内から選ばれた34名の若者が担いだまま荒川の清流に入り、「ワッショイ、ワッショイ」の掛け声とともに神輿洗いを行います。神輿が神社へ帰還後、屋台、笠鉾が市内を曳きまわされ、祭りが終わります。
なお、「川瀬祭の民俗行事」については、昭和57年9月に市無形民俗文化財に指定されています。
川瀬祭のつけ祭りとして牽引される屋台や笠鉾については、平成20年3月、市有形民俗文化財に指定されています。
所在地: | 秩父市番場町9番2号 |
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所有者: | 番場町会 |
現在の屋台は、昭和10年に荒木の工匠坂本盛太郎と髙橋卯三郎の手により建造された。元々は笠鉾で電線架設により屋台となった。
朱塗りの屋台で「朱(あか)い屋台」と呼ばれている。内室の周囲を飾る中国の八仙人の彫刻は、内山良雲等による名品である。また、屋根上左右妻が龍虎の彫刻で飾られており、屋台を装飾豊かなものとしている。
所在地: | 秩父市宮側町14番6号(宮側町公会堂横) |
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所有者: | 宮側町会 |
現在の屋台は、昭和10年に当地の名工、丸岡治助の手により建造された。元々は笠鉾であったが大正3年に電線架設で曳行ができなくなり屋台となった。
反り木・腰支輪(こししりん)(彫刻)は初代笠鉾のものを使用している。川瀬祭屋台としてはいち早く屋型と内室(うちむろ)を付設して内室式屋台とした。
所在地: | 秩父市東町7番9号 |
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所有者: | 東町会 |
現在の屋台は、昭和8年に当地の名工、丸岡治助により建造された。元々は笠鉾であったが大正3年に電線架設で曳行ができなくなり屋台となった。
四方唐破風造(しほうからはふづくり)が特徴で、全体に均整のとれた屋台となっている。屋根中央には、御幣を掲げ、笠鉾の名残をとどめている。
所在地: | 秩父市熊木町13番9号(熊木公会堂前) |
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所有者: | 熊木町会 |
建造は昭和29年と新しいが、大滝栃本から、笠鉾の勾欄・彫刻(大滝村強石で使用していたものが後に栃本へ)を譲り受け、笠(3層)・万燈・水鉢(せき台)・天道も宮側笠鉾で使用したものを譲り受けている。
腰支輪は、波に龍の彫刻で玉眼入り、江戸時代末から明治初年の作といわれている。
所在地: | 秩父市道生町3番23号 |
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所有者: | 道生町会 |
昭和27年に「曳太鼓」を建造し、川瀬祭に参加していたが、平成9年、上町から三代目笠鉾を譲り受け、改修して曳行することになった。
腰組は、明治22年建造当時の上町笠鉾の形態を引き継いでおり、床が低く、腰支輪の幅が狭くなっている。
笠は、3層の笠とも洋釘が使用されており、大正6年~昭和8年に造られた笠と思われる。笠鉾の上部は、上町笠鉾を踏襲し、せき台の上に御幣を掲げている。
所在地: | 秩父市上町二丁目9番12号(上町公会堂横) |
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所有者: | 上町会 |
上町笠鉾(四代目)は、昭和57年の建造と川瀬祭の笠鉾・屋台の中で最も新しいが、笠は三代目笠鉾と同様に二重垂木を採用し旧態を継承している。
また、腰支輪の波に亀の彫刻は、大正8年から昭和11年まで秩父祭上町屋台で使用していたものを転用している。
所在地: | 秩父市中町1595番地2(今宮神社社殿横) |
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所有者: | 中町会 |
中町笠鉾は、昭和11年に番場屋台と同様、荒木の工匠坂本森(盛)太郎により建造された。
笠は、明治20年頃に建造された二代目笠鉾のものを用いている。彫刻は、「唐子遊び」を主題とし、川瀬祭笠鉾・屋台の中では特異な彫刻となっている。腰支輪は、欄間形式をとっている。